岡山藩の正式な接待所は牛窓だったので、下津井は悪天候など緊急的な避難港に過ぎなかった。
 第7回1682年7月20日往路六口島に、9月9日復路下津井に船懸かりしている。この様子は、東槎録によると、『7月20日午前10時に対馬島主が出発することを請い、漸く白石を過ぎ風を受けるために半ば帆を掛けた。下津井は未だ遠いが風雨が俄に起こり、船が矢の如く速く走るので慌てて櫓を漕いで山際に避難して停泊したが、すなわち六口島で人の居ない所であった。対馬島主以下各々見舞いの人を送って慰め、我らも別途に安否を訪ねた。六口は備前州に属し、此処からは牛窓まで護行の任務を担当した。』とある。また『9月9日晴れ、午前6時に室津を出立した。遥に前路を眺めると、海には帆掛け船が多く、西方から東方へ向かっていた。西風が甚だ激しく吹いて、船の速いことは矢のようであった。一瞬の間に過ぎ去って、正午になると牛窓を過ぎ、備前太守が鴨5羽と梨各1箱を送って来た。午後10時頃に下津井に着いて船上で宿った。備前太守が後を追って鯛5尾と鮑1籠、茶1器、酒2樽を呈上した。奉行たちが言って来て、何よりも重要な船の運行を相談もせずに宿を通り過ぎたことである。下津井は宿として定められていないので、停泊することは難し。深夜0時頃に出立した。室津から昼夜兼行で30里来た。午前8時に鞆ノ浦に着いた。』
 朝鮮通信使の出迎えの様子は、岡山藩朝鮮人来朝記(1719年の第9回朝鮮通信使)によると、『通信使の動向は逐一報告されるが、一行が相ノ島に入ったことが8月4日に報告されると、全員配置につく。そして8月20日鞆ノ浦に到着の知らせが入ると、119隻の船が岡山藩内の定められた場所に行く。食物を送る支給船は下津井港で待機する。船奉行は護行船団を率いて福山藩との境まで出向き、一行の船団を牛窓まで護航する。
 護航船団の編成は、正史船に44隻、正史従船39隻、副史船44隻、同従船39隻、従事官船44隻、同従船39隻、通詞船81隻、対馬藩船160隻が付き、総計845隻、船頭や水兵は3707名である。』と記されてある。

町並み


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